西加奈子さんの文庫本新刊『ふくわらい』を読み終わったので、その感想を。
物語の主人公は、鳴木戸定(なるきどさだ)という女性。紀行作家の父を持ち、自身は出版社で編集を務める。趣味は福笑い。
定という名前は、破天荒な父がマルキ・ド・サドから取って付けたもの。
マルキドサド、なるきどさだ。
嘘みたいな設定だけど、相変わらず言葉選びのセンスが秀逸。
所々出てくる「ゲシュタルト崩壊」のくだりも笑えます。一方でこの言葉が全体のテーマにもなっているようで深い。
ゲシュタルト崩壊とは(Wikipediaより引用):
知覚における現象のひとつ。 全体性を持ったまとまりのある構造(Gestalt, 形態)から全体性が失われ、個々の構成部分にバラバラに切り離して認識し直されてしまう現象をいう
認知心理学の視点から「文字のゲシュタルト崩壊」が研究されている。これは、例えば同じ漢字を長時間注視しているとその漢字の各部分がバラバラに見え、その漢字が何という文字であったかわからなくなる現象である
タイトルにもなっている福笑いは、まさに顔のパーツをバラバラにして並べ直す遊びであり、物語にも、今までの常識や価値観が果たして本当にそうだろうか?と問い直したくなるようなエピソードが次々と出てきます。
そして、西さんの他の作品やインタビューにも共通するテーマだと思うのですが、言葉の持つ危うさについて考えさせられます。
言葉では言い表せない感情があるということ。
言外にあるものを取りこぼすことで、先入観や偏見が生まれてしまうのではないか、ということ。
例えば、定が担当する作家の言葉に、次のようなものがあります。
「あなたが編集者だから書けたような気がします。あなたは『書かない』のだけれども。」
これは一見すると、「書く」側の作家が「書かない」側の編集者を 見下しているようにも聞こえます。でも続くのは、
定は、自分の胸がじわりと熱くなるのを感じた。
という一文。定とこの作家の間には、何度も言葉を交わすことで築かれた信頼感があり、だからこそ作家の感謝の気持ちを汲み取れるのです。
また、物語の中には病気で視力を失った人が何人か出てきて、どの人物も少なからず定に影響を与えています。
プロレスラーであり、作家でもある守口の言葉。
(プロレスは)音楽とおんなじ。若い頃に見ねぇと入ってこないもんなんだ。大人の頭は、理解しようとするだけで、体感しねぇから。
目で見ようとするのではなく、心で感じようとすること。視力を失った人物たちによって、そのことをより強く認識させられます。
詳しくは書きませんが、この作品には、人によっては何これ気持ち悪い、と思うような表現もいくつか出てきます。だけどそれも、定と作家たちの間に生まれた信頼感からわかり合えるように、西さんの作品を何冊も読んでるからこそ「わかる」という感覚があります。
そのため、西さんが直木賞を受賞して初めて出た文庫本ですが、正直なところ、万人におすすめはしません(;^ω^)
初期の『あおい』や『さくら』から入って、西さんの本面白いなと思ったら読んでみるのもいいかも。
あるいは、この本を読んで気持ち悪いとか、頭がおかしいとか思っても、他の作品をいくつか読んで、もう一度読んでみるとまた「わかる」こともあるような気がします。
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